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  無題

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Name: ぎぼ
Date: 2015/08/23(日) 02:24   No:28064
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Title: 無題    
自分が欲にまみれていくのは悲しいことだけど、その欲を果たさず自殺するのはもっと悲しいです。

本屋に行けば多くの小説や漫画があり、メディアショップに行けば多くの映画や曲やアニメがあり、どの楽器も面白そうだし、どのスポーツもやりがいがありそうだし、どの食事もおいしそうです。どの国にも多くの魅力があるし、それぞれの学問の分野にそれぞれの真理があります。そして文化と文明は常に流動的です。

私はその総てを知りたいのです。ですが現段階では、恐らく無理でしょう。
その一切を知ることが出来ないのは悲しいことだけど、中途半端に与えられて、結局知ろうとする意欲も、命も奪われてしまうのはもっと悲しいことです。

生まれてからもう二十年経つのに、全く目途が付きません。私は一体どうすればいいのでしょうか?



Name: ぎぼ
Date: 2015/08/23(日) 23:42   No:28072
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Title: Re:無題    
自分で言うのもなんですが、私は人一倍「生」に対する執着が強いと思っています。ならばやはり命は手放すべきなのでしょうか。

「自分を捨てて初めて
 自分を見出し
 赦してこそゆるされ
 死ぬことによってのみ
 永遠の生命によみがえることを
 深く悟らせてください。」

この祈りこそが、やはり真理なのでしょうか。

断捨離の心構えは、何となく頭で理解することはできるのですが、如何せん、伝聞ばかりで主観的経験がないため、いまいち心から信じることが出来ません。

死ぬ勇気は褒め称えられるべきものでしょうか?


Name: ぎぼ
Date: 2015/08/24(月) 00:15   No:28073
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Title: Re:無題    
キリスト教の話になってしまいますが、私の考えを書きます。

聖書には、全人類の母イブがエデンの園に生えた「智恵の実」を食べた結果、人は知性を手にすることが出来たとあリます。ならば、「常に更なる知的進化を目指す」ことこそがイブの、そして全人類の意志ということになります。

それこそが、人を煩悩の檻に閉じ込める、間違った考え方でしょうか。野生動物のように生きることこそ、人間として最も輝ける生き方なのでしょうか。だとしても弱い皮膚に覆われた人間が生きる為には、自然界は厳しすぎます。また野生動物にも、進化だけでなく、「外敵のいない、より安全な所は何処か」とか、「より多くの餌が食べられるのは何処か」などの志向性を持っていると思われます。


・・・こんな事を考えるのがいけないのでしょうか。
しかし、「断捨離の心構え」と「怠惰」や「思考停止」を履き違えては元も子もないというか、どうしようもないというか…。

よく分からなくなってきました。


Name: ぎぼ
Date: 2015/08/25(火) 01:10   No:28079
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Title: Re:無題    
人間は長い時間をかけて、文明を発達させてきました。
御釈迦様が生きていた約二千五百年前では考えられない生活を、現代の私たちは送っています。

狩猟採集を基本とした生活を送っていた頃の、野生動物に近い人間は、現代人のように、どうでもいいことに悩まず、「今」を精一杯生き、その一瞬一瞬で、輝かしい生命の光を存分に放っていたのでしょうか。
常に死と隣り合わせ、大自然の驚異に圧倒されながら、躍動していたのでしょうか。
そしてそこに悟りは存在したのでしょうか。
(動物って悟っているのでしょうか?)

現代では様々なことが便利になって、人間の「動物」としての、身体的特性は衰退しつつあるように思えます。その代わりに頭脳が発達してきたのですが。

ここで疑問に思うのは、「動物としての人間」(身体)と「神としての人間」(精神)の関係性です。もし両者が、共に発展していくものならば、現代人に救いはあまり残されていないように思われます。
逆に両者の乖離が激しいほど、人間の神性が強調されていくのなら、人類はこれからどこへ向かうのでしょうか?

キリスト教の話になってしまいますが、聖書には、全人類の母イブがエデンの園に生えた「智恵の実」を食べた結果、人は知性を手にすることが出来たとあります。ならば、「常に更なる知的進化を目指す」ことこそがイブの、そして全人類の意志となります。その結果生まれたのが、現在の生活で、これからまだまだ発展していくのでしょう。
このまま行って、見果てたユートピアに辿り着けるでしょうか?


瞑想とは、身体的機能を極限まで抑えることによって、人の精神を、人間の神性を、全面的に吐出させるものだと認識しております。
ならば死ぬことこそが、最高に賞賛されるべき瞑想法なのでしょうか。即身仏の偉大さは、最も手放しがたい命を捨てる、その勇気、その覚悟にあるのでしょうか。


Name: ぎぼ
Date: 2015/08/25(火) 23:38   No:28085
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Title: Re:無題    
上の投稿は、4番目の投稿が反映されていないと思い、重ねて投稿してしまいました。申し訳ありません。

己が所有物である身体に対する執着は愚か、ということでよろしいでしょうか。そして生に対する回答が得られるまで、疑問を持ち続けると。

仏手様のアドバイスに従うのならば、私は、天寿を全うした後の全能的な世界に憧れながら、修行僧のように質素に生活しつつ、熱心に信仰を続けるのがよい、ということでしょうか。
この世の事象など、悟りに比べたら取るに足りない、下らないものなのでしょうか。こんなにも魅力的な世界が。

私が考えていた生きる意味とは、「好奇心」です。勝手なイメージですが、悟りの世界とは全てが満たされて心地良いが、時間の概念がないため、永遠に飽きないけど、一瞬で飽きてしまう、という状況が起こりうると思っています。そしてその「好奇心」を満たす為に、この世界に産まれ落ちたのだと。

質素な生活を送る上で心配なのは、資本主義における思考停止は、資産家にとっての最高の搾取対象になってしまう、ということですが、これは誤解でしょうか。



詭弁や屁理屈のような意見ばかりで大変申し訳ないのですが、私はただ純粋に自分の意見に対する批判を得たいのです。それを受け入れるかはまた別ですが...。
自分の考えに固執する癖があるため、視野が狭いのです。私の視野を広げてください。


Name: たま
Date: 2015/08/26(水) 09:36   No:28086
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Title: Re:無題    
スマナサーラ長老の

『幸せの分析〜人生は充実していますか?』
という文章を見つけました。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi56.html

何はともあれ、ぎぼさんご自身が「しあわせ」と思えるような人生を送れるよう、陰ながら応援しております。


Name: あん
Date: 2015/08/26(水) 17:49   No:28087
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Title: Re:無題    
はじめまして、ぎぼ様
少し議論できたら嬉しいと思いまして、書かせていただきます。

>即身仏の偉大さは、最も手放しがたい命を捨てる、その勇気、その覚悟にあるのでしょうか。

即身仏の偉大さは、この世に浄土を出現させようとする志にあるのだと思っております。
この世の浄土が現実となる理を授かれるならば、私も喜んで即身仏を目指します。

個人的な経験にもよることですが、真の喜びである幸せは、精神性にあることは仏教などで懸命に説かれていることです。
浄土とか涅槃とか天国とかと呼ばれる。
そうしたことに幸せがあることに、私は疑う余地はありません。
物質界に生きる私は物質的な貧しさにより困窮し苦しみとともにおりますが、ご縁があり生きる目的は明確です。完全ではなくても、それを理解できたことは最上の喜びで感謝に値するのだと思っております。
そのことを理解できないのも地獄ですが、それを表現できないさせられないことも地獄です。
早く生きる目的を明確にして、この世に浄土を出現させよということではないでしょうか。

>「好奇心」を満たす為に、この世界に産まれ落ちたのだと。

好奇心のままに生きると様々な障害に遭遇します。そのようにして今のあなた様のように信仰に導かれていく。人の常ではないでしょうか?
満足できるわけなく、一般的な感性では成功するわけがありません。信じられなければ、自分で確かめるしか道はありません。そうやって学ぶのが人生ともいえるかと思っています。各々の身勝手が通用する許容範囲を特定することはできませんが、人間は全ての関係において必ず他者と関わりある身分です。行為により他者へ及ぼした影響は自らも理解することにならなければいけないのだと考えられます。なぜなら、それができなければ人間的な成長が望めないからと思うのです。



人の間にある善い関係の根本は、助け合いであり、自助努力ではないとおもいます。
切磋琢磨の自己成長からくる感謝は、個として強くある我欲的な感謝であり、自己を知ることから生じる他者への感謝です。
あくまで同じ価値観の基に形成される条件にあって、価値観が異なっていれば、事実上の切磋琢磨など成立しないことではないでしょうか。
固執する人間の性質上、他者を知ることの感謝とは全く意味合いが異なってきます。
皆様に支えられて生きていることを実感するから、皆様への感謝が生かされます。
皆様のお役にたちたくなり、お役にたてれば尚更、皆様に感謝ができるのです。
皆様に蹴落とさられ生きれないこと実感すれば、それは皆様への感謝ではなく生そのものへの感謝に留まるような感じです。
そのとき自助努力で乗り越えて残る感謝は、切磋琢磨同様の自己を知る感謝です。
皆様のお役に立てたときでも、生そのものへの感謝にしかならない。たぶんそうです。
それでは皆様への直接的な恩返しの心が生きないのです。
こんなに愚かしく悲しいことはありません。
そのように考えております。


Name: ぎぼ
Date: 2015/08/26(水) 20:22   No:28088
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Title: Re:無題    
少し考える時間をください。

Name: ぎぼ
Date: 2015/08/29(土) 08:17   No:28090
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Title: Re:無題    
仏手様、不快な印象を与えてしまい、申し訳ありませんでした。
私はただ、話を聞いて欲しかっただけかもしれません。
ですが、ここに書いた事は、総て私が真剣に悩んでいることです。

○障害の診断は受けませんでしたが、知能テスト等の結果、他者とのコミュニケーションに難ありと出ました。

○学校等ではそれなりに周りと上手くやってきたつもりでしたが、知らず知らずの内に、周りの配慮があったのかもしれません。

○スポーツや体を使う仕事は、得意とは言えないまでも、標準的だと思います。


匿名性を利用して調子に乗りすぎました。
他の方も不快に思われたのなら、本当に申し訳ありませんでした。





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