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Name: ウキ
Date: 2015/11/24(火) 21:16
No:28352
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Title: 自分への無価値感
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幼い頃から「死にたい」が口癖でした。 25になる今でも、滅多に口にはしないものの、心は同じです。 いわゆる死を迎えると、すべてが無になる、と教わり、考え、そして幼い頃に行きついた結論が、「今をどんなに努力しても、逆に何もしなくとも、死後にはすべて無になるのならば、何もしない方が楽だ」というものでした。
人には必ず死が訪れます。それが早いか遅いかの違いでしかない、と考え、幾度か自殺を試みたことがあります。首吊り、飛び降りなど、です。 何故「死にたい」が心癖となったか。それは、私自身への無価値感に相違ありません。 何をやっても他人様に優れたところがなく、誰に接しても常に見下すような態度を取り、そんな自分を思い返しては、「こんなに心の醜い私は、生ごみのようにさっさと処分されるべきだ」と考えるのです。
自然界では、能力の劣る者から淘汰されていきます。 しかし人間の社会では、能力の劣る者すら現世に縛り付けます。 苦しい、苦しい、なんてダメな自分なんだ、と悩み。 改善のために動いても続かず、成果も出ず、堂々巡り。 動けば動くほど空回りし、一層ダメな自分になって還ってくる。
遂には周囲を拒絶し、「もう誰も私に関わらないでくれ」と様々な縁を断ち切り、閉じこもっています。 人を見るのが怖くなってしまいました。見知らぬ人であっても、「あの人は私より優れている、輝いている」と感じ、眩しくなり、それが嫌悪感となって跳ね返ってくるのです。 先に「他人様を見下す」と述べましたのは、「どうせあなたも、私をバカにするのだろう。ならば礼節を持って接する必要はない」と感じる心癖によるものです。
長所らしい長所は持ち合わせていません。誰かが私の長所を指摘するのであれば、詳細な理由と共に反論し、拒むことでしょう。 取柄らしい取柄も持ち合わせていません。 誰かを思いやる気持ちも、持ち合わせていません。感謝の心も持ち合わせていません。 喜怒哀楽を感じる心すらも希薄です。 死を希求する時、自分ではなかなか踏み切れず、いっそ誰かがナイフを手に……と考えてしまいます。
何故、私は淘汰されないのでしょうか。 何故、私は処分されないのでしょうか。 他人を見限り、見限られ。それでも生きてしまっているのは、何故なのでしょうか。 私には、何の価値もないというのに……。
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Name: 在家
Date: 2015/11/25(水) 00:00
No:28353
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Title: Re:自分への無価値感
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価値観は人間のエゴが決めるものですから、それで人や自分の命を決めることはできません。 人間の命は自然の運命が決めます。 だから誤った考えで死のうとしても、なかなか死ねないのです。 人間はそのように守られています。
人の優劣、生活の貧富、物事の善悪で人の尊厳が決まるわけではありません。 どんなに劣っていても、どんなに貧しくても、どんな悪人でも人の尊厳は同じで、一面的な価値で人を比較することはできません。 人生はみな固有で、人より劣っている人生も、その人の学びに大切な意味があるのです。 人間は一時の価値で生きているのではなく、悠久の真理の中で生きていることを忘れないでください。
死ねば自分がなくなるというのは唯物論が生んだ迷信です。 自分がなくなるのは「さとり」でしか起きません。 肉体の死は、自殺を除いて身体と自分が分離することを体験するだけです。 自殺は死に気づかずに苦しみ続けます。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ○この掲示板は投稿してもそれが掲示板に反映されるまで時間がかかります。 返信があるまで何日かかゝることがありますので、そのつもりでお待ちください。
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Name: ウキ
Date: 2015/11/25(水) 20:27
No:28357
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Title: Re:自分への無価値感
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>在家様 お話、ありがとうございます。
私が人生で学ぶべきことは何か、ということに焦点を当て、何度も何度も考えてきました。 結論は出ず、いつも堂々巡りです。 時々、糸口をつかむことはあるのですが……私には高望みが過ぎる、とあきらめたりしています。 例えば、私の両親は不仲(父が何をキッカケに怒鳴り散らして暴れだすか全く分からない)なので、私が家庭を持ったら穏やかな心で家族に接することが私の課題。このように考えた時、「そもそも私のように長所も取柄もない人間が、伴侶を持てるはずがない」といった意識が芽生え、「私は結婚してはならない」と結論づけるのです。
もしも、私に価値ある学びがあるのならば、失礼を承知で申し上げますと、具体的に教えていただきたいです。 私が私自身に価値を見出せないように、私以外のあらゆるもの、人、生命にも価値を見出せないのです。
自殺が、死に気づかずに苦しみ続けるのなら、それを怖い、恐ろしいとは感じません。 ただただ「死にたい!」「死ねない!」を繰り返す。その中には日常も現実もなく、ただひたすら物理的な痛みや物理的な苦しみを味わい続ける。そうであるのなら、正体の分からない苦しみの中に身を置くよりもマシ、だと考えてしまいます。
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Name: 在家
Date: 2015/11/27(金) 00:52
No:28364
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Title: Re:自分への無価値感
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> 私が人生で学ぶべきことは何か、ということに焦点を当て、何度も何度も考えてきました。結論は出ず、いつも堂々巡りです。 考えや価値観はエゴの産物なので、人生や生命をいくら考えても理屈ではわかりません。 人生や生命は真理(宇宙の法則/神の仕組み)によるものなので、素直に真理を学ぶか、さとりを得て自分で感得するかのどちらかです。
> 私に価値ある学びがあるのならば、失礼を承知で申し上げますと、具体的に教えていただきたいです。 これも同じですが、価値はエゴの産物なので、人生を価値で判断することはできません。 まずは理屈で考えることをやめて、疑問は疑問のままにしておくことです。 疑問だらけであること(謙虚であること)が真理を学ぶスタートラインです。
あなたの苦しみは誰のせいでもなく、すべてあなた自身が作り出しているものです。 因果応報・・・それが宇宙の法則(真理)です。 例えばあなたが人を見下すのは、おごりやプライドが強いからです。 そのような人は劣等の苦しみを受けるようにカルマが働きます。 あなたは生前それを承知して生まれています。
だからあなたのエゴが苦しみから逃げ出そうとしても、あなたの魂は死を選ばないのです。 あなたが自分から積極的に人より劣る苦しみを味わい尽くせば、自然におごりがなくなって、劣等の苦しみもなくなります。 優越と劣等は磁石と同じ双極性(二元性)のものだからです。 それが人生の学びです。
真理は理屈ではありませんから、くれぐれも理屈で考えないでください。 素直にそれを受け容れることができなければ、今は縁がないということです。
どのような苦しみも、一つとして無駄なものはありません。 苦しみは神が示す教材(テキスト)です。 興味深く読み解いてください。
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