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  信じる価値で、寿命をまっとうしたい

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Name: あん
Date: 2015/07/27(月) 14:40   No:27960
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Title: 信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
私には、どうしても一般社会と折り合いのつかない考えがあります。仏教に基づいた八正道などの心持でありたいのですが、私の性分も含めて、ご縁に難しく継続できません。これまで数々の精神疾患を患いながら、自分を信じて精進してまいりました。気付けば就職難で体調もすぐれません。必要最低限の生活を工面するための借金生活にも陥っております。生活保護という手段を考慮するほかない時期かもしれないのですが、家族へ心配をかけることが許せず、この20年以上の間、偽りながら意地を通し続けてきました。こんな私が、これだと思えるような生きるための知恵を授けていただけないでしょうか?



Name: あん
Date: 2015/07/28(火) 11:31   No:27966
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
仏教から一切皆苦という言葉を習いました。
真の意味は、執着を失くしたときにも残る尊い善の喜びや愛しい想いさえ、目的を諦めろという意味でしょうか?
つまり命を天に預けてしまえということになるかと、思えております。
それにより、尊い喜びに生きることが出来る。
それもあると感じられています。
であるとすれば命を天に預け切る覚悟は、どのように感得していけばよいのでしょう?
やはり完全に全て捨て切ってしまわないと、ならないのでしょうか?
高僧と呼ばれる人達が山籠もりをした理由が、何となくわかるような気がしています。
とても私には、できそうに思えないことです。


Name: あん
Date: 2015/07/28(火) 10:44   No:27965
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
大変に、ありがとうございました。
私なり基づけば、あらゆる執着を失くして、今を生きることに尽きるのではないかと考えます。
しかし現実には過去を無視することはできませんし、収入がなければ生活はできません。人々が共に喜び合うことが目的にあるとすれば、まずは小さな共同体と共になければなりませんし。不可抗力のような縁に学ぼうとも、自ら不運を招くような行為はとりにくくあり、結果的にも上手くありません。あらゆる執着を失くすとは大変に難しいことだと痛感しております。
真理を求めるのであれば、自分の命を完全に天に預けきってしまうような心がけも必要になるのではないかと思うのです。
上辺だけでなく出家のような覚悟を感得した生き方が、必要となる気がしてしまいます。
それは大変に難儀なことではないでしょうか?
むずかしいです。。


Name: あん
Date: 2015/07/29(水) 10:25   No:27968
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
ご意見を賜りまして、ありがとうございます。
煩悩に生きない生き方となりますと、やはり、あらゆる執着から離脱する必要性は感じとらずにいられないものです。
また、そのように至ってきたとの認識にもあります。
何でも理屈で考えてはならないとのお言葉を頂いたにも拘らず、私には、それが悟りのようにおもえています。それが難しいです。
この辺り、ご指導いただければと思うところですが、簡単に上手く表現することが難しいです。
私にとって煩悩を断ち切ることは、ある種の身勝手さも感じられるものでありまして、一方でそれも必要なことだと教えられているのだと感じさせられます。
やはり貫いた意思を天に示す最善の方法があれば、それが自分にとって最も満足の得られることなのかもしれません。



Name: あん
Date: 2015/07/29(水) 10:41   No:27969
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
正直、申して私が伺いたいことには答えがないかもしれません。
決死の覚悟となる山籠もり、滝に打たれながら意志を貫こうかといったところ。
このようなことを申し上げれば、はた迷惑な悪行だと苦笑されるでしょうか。
しかし私は、意思は命より尊く重いものだと感じています。


Name: あん
Date: 2015/07/29(水) 12:13   No:27971
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
真理といってしまえば、すべてが真理ということになるかと思えております。
克服すべき課題はあるが克服できないのだから、”瞑想”と”いまここ”と”あるがまま”で終焉するべきである。ということなのでしょう。
とすれば、それは仏の境地ではないのでしょうか。
生きるとは煩悩により、真に生きる方法を見出すことにあるかと考えおります。
煩悩は最終的に人々が笑顔で過ごすための手段であり、そのために成すべきことをするという目標を掲げることが真の目的にはあるだろうと思えています。
そして真の目的という目標を捉えれば、不要なものが多すぎるわけですよね。
生きるとは煩悩から脱することではなく、煩悩とともにあり、やがて煩悩を生きて克服することにあるのではないのでしょうか。
そのように思っておりますが、何をどのように捉え直せば宜しいでしょう。


Name: 青野
Date: 2015/07/29(水) 12:48   No:27972
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
こんにちは。仮に、貴方が自身が信じる「価値」を手放すことができないのであれば、どこで誰に何を聞こうが、学ぶことは少ないかと思いますよ。

「邪見」あるいは「正見」ということについて、学習されたことはありますか。考え方、見方が仮に「邪見」であれば、どれだけ言葉を尽くそうが、それは邪見でしかありません。

また、克服すべきものが克服できないという発想と、八正道は相容れないのではないでしょうか。自身に都合よく教えを歪めることを止めて、純粋に学びなおしたらよいのではないかと感じます。言うまでもなく、本来の仏教の目的は解脱です。ご参考までに。


Name: あん
Date: 2015/07/29(水) 17:17   No:27973
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
ご多忙の中、ご意見を賜りましたこと感謝しております。
自業自得ですね。
きっと私の信念など皆様には邪見なのでしょう。
ありがとうございました。


Name: たま
Date: 2015/07/29(水) 18:03   No:27974
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
浄土真宗の僧侶の立場から。
八正道の中でも大切と思われる「正見(しょうけん)」について。

「正見」とは、ものごとを「正しく」「見る」こと、です。

では、「正しく」というのは、どういう事か?

何が正しくて、何が正しくないのか?

そもそもこの判断をしているのは煩悩まみれの私自身です。

「正見」とは、私自身が仏法を学ぶことで、賢くなって、
物事の真理が見えるようになることでは決してなく、
自分がなんと自惚れ、傲慢の強い、汚い執着心で固まった愚かな私であったか、という自分の発見、自分への目覚めだと思います。


Name: 青野
Date: 2015/07/29(水) 18:34   No:27975
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Title: Re:信じる価値で、寿命をまっとうしたい    
あんさんの信念が何かを分かっておりませんので、それが邪見とは申しておりませんが、煩悩についての理解は、歪みが感じられます。

「邪見」は邪見でしかありませんが、そこにしがみつく(執着)することで問題が大きくなります。文章を拝見する限り、まだ法(ダンマ)について学習の意欲があり、執着までに至っていないと感じられたため、改めての学習を勧めさせていただいた次第です。菩提心がおありであれば、尚更、きちんと学ばれた方が良い結果が得られるであろうと思います。


Name: あん
Date: 2015/08/02(日) 17:10   No:27980
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Title: Re:    
沢山のご意見を賜ることが出来まして、ありがたく思っております。
『幸せになるには自分(エゴ)を空っぽにして、神(自然)の価値である真理(天道)に生きる』
できれば私も、そのようにありたいと考えております。
しかしながら現状で生きることが素晴らしいと思うには、執着があるからこそだともいえるのだと思っております。
なぜなら執着(エゴ)から完全に離脱したということであれば、人としての生存は難しいことにあるからです。
どのあたりまで執着(エゴ)から離脱する必要があるのかということは千差万別な人生でありますので、一概に決定できない状態が永遠に続いているようなことではないでしょうか。
私は我欲が強いように思われているようですが、それは恐らくございません。
生きる手段が途絶えるほど我欲を抑え込むことには、努めてきたつもりでいます。
自省する意識も劣ってるつもりなど毛頭ありません。(社会規範として、今の己に対して、何れの場合もです)
私は真の世界平和実現が約束される手段があるというなら、喜んで命を差し出して構わなかった立場です。
少なくとも、そのくらいの人生経験は積んでいるとの自覚にあります。
ただ今は生きるためには、悪人として生きる自覚をもつことも大切なことだと改め直そうとしております。


Name: あん
Date: 2015/08/03(月) 11:27   No:27984
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Title: Re:    
自分に都合のよい意見とは、最終的な見解では誰にとっても都合の良い意見となるものではないのでしょうか?
誰にとっても都合の良い意見を目指したいのは確かです。
全ての問題が自分だけにありとすることが、虐めや自殺も含めた最も合理的な解決法だと仰ってるかに聞こえますが、それとは違う意味にあるのでしょうか。


Name: あん
Date: 2015/08/05(水) 10:50   No:27989
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Title: Re:    
仏手様、仰ってることが少しづつわかってきてるかもしれません。
私は、喜びや慈悲心にある論理と絶対的信頼による自力での克服に頼り過ぎてきた気がしています。
「真理に対する絶対的な信頼のもとで判断しなければならない。」
そういうことなのでしょうかと。
たぶん私には、この観点が中々に理解できないのです。
「あるがまま」や「いまここ」であれば、自ずと楽を選択する傾向にありました。
それで苦しみを必要以上に経験しなければならなかったようです。
忙しいところ何度も申し訳ありません。
「真理に対する絶対的な信頼」
理解するには、どうすれば最善だと思われますでしょうか?


Name: あん
Date: 2015/08/05(水) 17:37   No:27991
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Title: Re:    
私は優劣のために生まれてきたわけではありません。
そこに向き合うため一生懸命に悩んでも、それ自体は何も悪くないと思って生きています。
本当は衣食住には事足りるはずの恵まれた環境で、衣食住に苦慮しながら生かされることとなりました。
だからこそ必死にはなれるのだろうと思っています。
しかし一方で人類は暮らしやすくなったのか、今の生き方を継承すれば未来は過ごしやすくなるのか?
私は、それでよいのか?
答があっても手段が見つからないまま考えてしまいます。
いったい、それの何が、いけないというのでしょうか?


Name: あん
Date: 2015/08/06(木) 09:44   No:27997
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Title: Re:    
考えるなというのは都合の良い生き方からくるものにおもえます。
考えないから不幸を招き、不幸があるから考えることになる。
考えることによって、幸せを描くことができる。
不幸により幸福を知る。
これらは事実に違いありません。
手を取り合うことができなくて、動物的な思考から抜け切れない。
故に真理に完璧な信頼を寄せる以外の方法が現実的でなく、そうするほかないという理由ではないのでしょうか。
考えないことからくる人災の不幸は、つまり無関心だといえます。
決して奨励する出来事にはなりえません。
きっと皆様には言葉にできない、なにかがあるというのでしょうけど・・。
その想いに対して私は、感謝致します。



Name: あん
Date: 2015/08/07(金) 10:05   No:28001
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Title: Re:    
私の場合では喝を入れて、正しく苦しみに向き合わなければならない運びにあるようです。
そのためには感覚的ではない“あるがまま = 他力本願”にある仏教の教えも深く学ぶことが必要なのだと思っております。
丁寧な対応と、ご縁に感謝しております。
ありがとうございました。


Name: あん
Date: 2015/08/17(月) 11:01   No:28039
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Title: Re:    
慈悲心をも離脱していくしか手立てがなくなれば、大往生しかないわけですよね?
家財道具やら何やら、すべて擲って、身一つだけです。
そして誰も居ないような静かな場所で、座禅を組むとか最もリラックスできる姿に身を置く。
ひとり真理に向き合って、命の灯が消えていくのを感じながら俯瞰するようにして逝く。
そのように静かに死んでいくのことが、大往生ということではないでしょうか?
できません、ふつうは。
だったら大往生のマインドは、どう処理すればよいと仏教では説かれるのでしょう。
瞑想とあるがままといまここ、というのは小乗と呼ばれるらしいですが、それまでの過程のことを説かれてる話ではないのでしょうか?
誰もが大往生に向かわなければならないことは、世の罪です。
皆、苦しんで大変です。
孤独な死にある大往生のマインドをつくらせることの現実は、根絶していかなければなりません。
そのための智恵を授からせてください。
お願いします。


Name: あん
Date: 2015/08/17(月) 13:23   No:28040
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Title: Re:    
人の自他同一意識が発令されなければ、どうにもならないような愚弄ともなっていくわけですけど、人生を理解するには何れ自他同一意識は必ず知ることになっているのですよね。
体験を通じて理解することが難しく憐れで、理解後にも表現できず壊れる人もいるわけです。
それで様々な宗教や仏教や思想が自他同一意識による慈悲の顕れとして懸命にそのことについても説かれているわけですね。
その慈悲さえ断ち切ってしまう大往生というのは最終的な決断で、やむを得ずに取る措置のようなものではないのでしょうか。
納得するまで自らの身を焦がし自滅するくらいまで遣り遂げたからこそ、漸く決断できる大往生なのだと思うのです。
飽きれて、どうにもならず決断する無我の大往生。
間違えてないでしょうか?
本来は大往生などするなさせるなということも、仏教では説かれているはずです。
私は、身を焦がして遣り遂げるまで至れていません。
いま、こんなことをしていますが、私が大往生できない理由は、それだけだと思っております。


Name: あん
Date: 2015/08/17(月) 22:04   No:28042
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Title: Re:    
ポジティブシンキングとかは、すべて過程でしかありませんよね。
ポジティブシンキングこそ自らを地獄に陥れる罠となることが、わかります。
なぜなら現実とは、ポジティフではないから道理になると言えるのです。
現実に真のポジティブを出現できないのであれば、常に真面目で精一杯で誠実で研ぎ澄まされた意識でなければ正しくはならないのです。
まあ、そんなことは難しいです。
ネガティブにあり野性的な厳しさに生きることは、真の幸せとは呼べません。
幾つか道があっても、幸せの視点では、どの道も塞がってるのではありませんか。
真のポジティブ出現がベストであることに変わりない事実ですが、誰も、そうは考えないのでしょうか。


Name: あん
Date: 2015/08/18(火) 09:04   No:28043
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Title: Re:    
苦難を理解する一つには、有名な業という考え方や教えがあるのは存じています。
多々、納得できる部分もあるのですが、正しい真偽の理解に人智が及ぶことはないように思えることです。
ただ考えられますのは、業という表面的な理解に留まれば、本質的な理解が失われていく矛盾ではないでしょうか。
本質的な理解の伴わない抑圧主体の人生となれば、真の幸せに至れるはずなく、魂の抜けた人生のようになってしまうではないかと感じます。
一方で悪い業をつくりださない環境にあって、本質的な理解を得ることが必要なことに違いないだろうと思うのです。
もし業の顕れだから、それで全部OKという観点にあると、無関心という状態をつくりだし、自他とも新たな業を生じさせることとなりますので、それは間違っていることではないでしょうか。
仏教では、業という考え方や教えについて、どのように説かれてることが正法とされるのか、伺えれば光栄です。


Name: あん
Date: 2015/08/18(火) 10:56   No:28044
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Title: Re:    
真に悟り、愛もなく善悪もなく生きる人がいるなら、何を基準に生きているのか。
生きても死んでも構わないで生きているなら、それが偽りない事実だというのなら。
愛や善のために生きたい私にください。


Name: あん
Date: 2015/08/19(水) 10:18   No:28046
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Title: Re:    
考えないことで目前の現象がどうにもならなくなり、考えないことで目前の現象をどうにかする。
どれだけ誤魔化せるかへの挑戦です。
それも輪廻の技の中の話ではないのでしょうか。


Name: あん
Date: 2015/08/19(水) 10:25   No:28047
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Title: Re:    
感謝の有無が問われそうですが、最終的には輪廻のわざですよね。

Name: 青野
Date: 2015/08/19(水) 18:26   No:28048
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Title: Re:    
この「かけこみ相談室」は、あくまで相談する場所であって、自説を戦わせる場所ではないので、返答をもし期待しているのであれば厳しいかと思います。
何年も前は、このサイトには「掲示板」という、相談ではないことを書き込む板があったのですが、無くなった模様です。一意見ではありますが、教えてgooなど、他のサイトの宗教のスレで書き込んだほうが実りあるのではと思います。


Name: あん
Date: 2015/08/20(木) 11:34   No:28053
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Title: Re:    
昨今の拝金主義にある弱肉強食の論理でありますと、人の尊厳を奪っていく問題にあることを考えさせられます。
具体的な事例や内容につきましては御承知と考えた上、割愛させていただきますが、現状の秩序制度が正当化されるしかないのであれば、自死の問題等における尊厳死について認知する必要を思うところです。
現行では自死問題につきましては自己責任として扱われ、他者の介入も処罰対象となりましたが、根本要因を解消しない限り払拭しきれない現状にあることは事実です。
であるとすれば、当人含め遺族関係、経過による心的困難の克服による弊害を抑制する意味も含めまして、安楽死の観点を検討する必要があると考えています。
ご賛同していただけることがあるなら、どのように法案を通過させて合法化させることが現実的に可能かなど含めて、ご相談させていただきた存じております。
併せて、よろしくお願い致します。


Name: あん
Date: 2015/08/20(木) 10:09   No:28052
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Title: Re:    
ご迷惑をお掛けしているようで申し訳ありませんが、私は相談しているつもりなのです。
私の意見に対して誤ってるなら、誤ってることを、ご指摘いただけないかと思っております。
永遠に苦の呪縛にあい、苦を受動するだけであれば耐え難いものなのです。
それで正しい生き方ができてません。
苦との対峙姿勢ができて、苦を克服する歩みがあってこそ正しく生かせて頂けるのだと考えています。
皆様のアドバイスは自責による苦に向き合えという話にあるようです。
私は自責による苦など、初歩的で身勝手で迷惑な話だとしか思っておりません。
この辺りの観点が異なるのかもしれません。
ですから不足する何かがあるなら理解を賜り、問題ないとの姿勢なら、この現状を如何にして打破するかを賜りたいと相談させていただいているのです。
よろしくお願いいたします。


Name: 青野
Date: 2015/08/20(木) 18:54   No:28055
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Title: Re:    
「不足」は、何か完全なるものがあって、そこと比較しての概念です。従って、「完全なるもの」が何なのかによって、不足が決まります。あんさんの「完全なるもの」が、どこかの宗教にあるのであれば、その宗教の教えに沿って不足を考えるべきです。「思想」というものは無数に存在しますので、まずは依って立つものを探されたら宜しいかと思います。
この掲示板は、特定の宗教(宗派)に依るものではなく、スピリチュアル含め雑多な回答が寄せられますので、よけい迷われることもあろうかと思いますし、必ずしも善意で回答が為されるとも限らず、誤った方向へ行くことも有り得ます。この掲示板で思索することはお薦めしません。


Name: あん
Date: 2015/08/21(金) 10:19   No:28060
   削除 
Title: Re:    
仮に安楽死を合法といたしますと導入後初期統計グラフでは、自死による死因が右肩上り予測となる可能性は非常に高く見積もれるものかもしれません。
しかし年間何万人もの尊い命が犠牲となってきた現行制度の続投体制よりは、遥かにメリットが大きいと判断できると思うのです。
導入の際には当然に問診等により一定の基準が設けられ、第三者立会いのもと秘密厳守の上で執行となるべきと考えています。
基準に満たない志願者に対しては、立て直しを計ることで道義的視点からの整合性も取れるかと思っています。
また所得額は基準審査対象項目必須となるでしょうから、万が一、現行制度改定がなされない場合でも、継続目的としても適う有用な制度になるはずなのです。
年金国保等の問題は一掃され、合理的な法案になるのではないでしょうか。
ただ目論見一番の目的は、私たち自身の反省や精神的な成長を促し、平和と歓喜の未来を構築していくことには違いありません。
問題の根絶に動けないのであれば、なぜ早く導入されないのか私は疑問の思いでおります。


Name: あん
Date: 2015/08/22(土) 12:19   No:28061
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Title: Re:    
悟らせる環境であれば、悪が強まるほど都合がいいということはあるのだと思います。
しかし悪が強まったなかで悟れる人など、どれくらい見積もれるものでしょうか。
最近は善悪がないという意見が蔓延しておりますが、本質を悟りきった思考の次の理解から、そうした回答をする人というのは、いったい幾人居られるというのでしょうか?
これも、すべて世の成り立つ仕組みの手のうち。
そうなのかもしれないというより、恐らくその通りなのだと思います。
すべては真理であるという事実に対する問題は、考えないことにある過ちだと思っております。
なぜ悟ったと自称するような人たちが、思考は誤りであると言われ続けるのでしょうか?
悟りへ導く手法としてなのですか?
ご理解いただいた上での正式な回答を窺いたく思っております。


Name: あん
Date: 2015/08/22(土) 12:30   No:28062
   削除 
Title: Re:    
優しさは煩悩であり、厳しさである。
厳しい修行に答はないといわれてるそうですね。
これは実は厳しい修行に答があるから、厳しい修行に答がないとされたわけなのではありませんか。
自分で探り当てるために、そうならないと悟りには理屈の通らないことがあるように思っております。
答えを、お伺いしたいです。


Name: たま
Date: 2015/08/22(土) 13:49   No:28063
   削除 
Title: Re:    
失礼ながら、あんさんが、何に悩んでいるのかが、わかりかねるのですが、「仏教」とは、「仏の教え」。「
「仏の教え」とは…

まず、この世は、
・愛する者と別離する苦しみ
・怨み憎んでいる者に会う苦しみ
・求める物が得られない苦しみ
・五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
に代表される苦しみ・苦悩に満ちていると説きます。

そしてその苦しみを乗り越え(抜け出して)「穏やかなこころ」になることを目指します。

その「苦しみ」を乗り越える(抜け出す)方法については、
「正しい理解を得ること」だと説きます。

つまり、
最初に苦しみにあえぐ「現状」をありのままに「理解」し、
自分が苦しんでいる「原因」についてはっきりと「理解」し、
この苦しみを鎮めるための正しい「方法」を「理解」して、
「穏やかな心」を手に入れます。

あんさん、まずは、
「自分が何に悩んでいるのか?どう苦しいのか?」
という事を徹底的に理解した上で、
※紙に書いてもいいかもしれませんね。
次に、
「自分が苦しんでいるその「原因」について理解されたほうがいいような気が致します。

ご参考までに。


Name: あん
Date: 2015/08/23(日) 17:05   No:28066
   削除 
Title: Re:    
たま様、ありがとうございます。
仰られます「穏やかなこころ」になること、つまり解脱や悟りのようなことと存じます。
ですが、あらゆる煩悩(関係)を断ち切り「穏やかなこころ」へ至る涅槃的思想では、現実に生きていくことが難しいことです。
これが自分の悩み苦しむ「原因」です。
生きるには断ち切ることのできない他者との関係にあること(・愛する者と別離する苦しみ)も、関連する要因となります。
光を感じるために目を瞑り、命を感じるために呼吸をする。
風を感じるのには、自転車もいりません。
動じない死の感覚ならば、安穏で私一人だけが生きていくなら、それでも良いことです。
「穏やかなこころ」へ到達でき、生かされることの感謝だけで済んでいたかもしれません。
しかし今を生きる状況は、関係を持ち、断ち切ることのできない煩悩とともに現実に生きる状態です。
私は、煩悩を断ち切り、これを苦に変えて、それに向かって生きていきたいと考えています。
では他者との関係にある煩悩がどこにあるか?それを具体的に説明させて頂くならば、可也の長文となりまして、例えば前述した安楽死考察へ至る問題などに起因して参ります。
無欲な安穏にある幸福感を表現するには、不敵で不適な環境にあると思うわけです。
そうした問題改善の取り組みに対して、私が動きを取れたとき、きっと心に従ったことによる「穏やかなこころ」近くへ到達できるとは考えております。


Name: あん
Date: 2015/08/23(日) 17:38   No:28067
   削除 
Title: Re:    
完成されてない組織の中では、不二だからこそ真の貢献ができる可能性が高くなるはずです。
現実世界を完成したものとして、完成されない組織が不二を殺せば、その勢力は真理によって滅ぼされると私は信じております。
もしくは完成したとされる現実世界の中で永遠に生きるに相応しい勢力になるということなのでしょう。
どなたかの表現を拝借しますと私は「基本的人権の尊重」 という思想によって「滅私奉公」の概念は創造されるべきであり、現状そのようにはありませんということになります。


Name: たま
Date: 2015/08/23(日) 23:03   No:28071
   削除 
Title: Re:    
私は浄土真宗僧侶ですのでその立場から回答します。

>仰られます「穏やかなこころ」になること、つまり解脱や悟りのようなことと存じます。

おっしゃるとおりです。ただあえて「解脱やさとり」と書かず「穏やかなこころ」と書きました。

>ですが、あらゆる煩悩(関係)を断ち切り「穏やかなこころ」へ至る涅槃的思想では、現実に生きていくことが難しいことです。
これが自分の悩み苦しむ「原因」です。

おっしゃるとおり、あらゆる煩悩を(仮に)断ち切れたとしたら、現実に生きていくことは難しいと思います。
あえて「解脱やさとり」と書かなかったことにも関係しているのですが、はたしてあらゆる煩悩を断ちきる必要があるんでしょうか?

ググってみたところ・・・^^;こんな言葉が出てきました。

迷いがあるからさとりというのであって、
迷いがなくなればさとりもなくなる。
迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。

だから、さとりのあるのはなお障げとなる。
闇があるから照らすということがあり、
闇がなくなれば照らすということもなくなる。

照らすことと照らされるものと、
ともになくなってしまうのである。
 
まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。
さとりのあるのはなお迷いだからである。

この境地に至れば、
すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。

すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、
さとりきらなければならない。

『楞伽経より』


迷いも煩悩も否定してもなくなることはないと思います。
否定するのではなくて、まずは、迷いや煩悩を「肯定」して、
よくその原因を考えたり見極めたりすることで、
迷いや煩悩をありのままに捉えることができれば、
まさしく「煩悩即菩提」ではないでしょうか?

※「煩悩即菩提」のwikiへのリンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9%E5%8D%B3%E8%8F%A9%E6%8F%90

また煩悩は我執(がしゅう)から生ずると説かれます。
我執とは、自己中心の考え、それにもとづく事物への執着という意味です。

「煩悩を無くすこと」「解脱やさとり」に執着してしまうと、永遠に近い悩み・苦しみをかかえる事になってしまうと思いますよ。

仏教は「苦しみを乗り越えるために」「執着するな」という教えですから。


Name: あん
Date: 2015/08/24(月) 12:05   No:28077
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Title: Re:    
たま様、ご多忙のところ、ありがとうございました。
なんとなく理解できるような理解できないような感じの話です。
私は「解脱やさとり」に執着してるわけではありませんでして、経験で導かれた先を追求した結果、仏教に正しさを見出せるといった程度です。詳しい教義や「解脱やさとり」の概念さえ、明確ではないことは前提でございます。
さて、その仏教の解釈についてですが、一概ではないようですので、必ずこれが正しいと限定することも又難しい話かと思っております。
それを追求することこそが私には「解脱やさとり」に執着することに値する気概のように感じられます。

>闇があるから照らすということがあり、
>闇がなくなれば照らすということもなくなる。

つまり煩悩がそのままさとりであれば、このようにある私そのものも煩悩であり、たまたま闇という役割を担っているということではないかといった解釈ができるわけです。ですから私は、このままでよいという解釈もできるわけですが、ここでいわれる闇を苦、照を楽と置き換えますと闇という役割を担わせられる立場は楽ではありません。”煩悩をありのままに捉えることができれば、まさしく「煩悩即菩提」”であるとしますと、また一つの解釈では”中道”といわれる教えが説かれたことにも納得できます。では”中道”で生きれるかとなりますと、それも現実に難しくあります。きりがなくなっていきますけども、私の考えとしましては、つまりこうなのです。闇から光は目立ちますが、光からの闇はわかりづらい。闇から見る私だからわかりますと。生きれる環境がない現実を問題としているところに、闇の存在としての、ご理解を頂こうとする。なぜ、それが否定されなければならないか?という煩悩です。
なにが間違えているのでしょうか?
お時間許されましたら、ご指導のほど、よろしくお願い致します。


Name: あん
Date: 2015/08/24(月) 13:31   No:28078
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Title: Re:    
誰もが闇も光も理解することになるというのは、私の経験により信じることです。その理解の先に「解脱やさとり」があるのでしょうけども、理解の最中に命が失われますと「解脱やさとり」へは至れません。その最中に命が失われることには、この上ない苦しみが伴ってしまいます。私は、そのような経過を他者や後世に継承したくはありません。これが私の慈悲心からくる煩悩であり、善の姿勢にあります。自暴自棄に陥ることなければ疑うことのあり得ない”あるべき姿”と思っております。「解脱やさとり」へ至る道に至りやすい環境があって、実現すれば最低限の必要苦だけで「解脱やさとり」へ到達できると考えているのです。そのためには、まず何が何でも人が生きれる環境を構築しなければならないと考えています。苦しみに向き合う姿勢と、その意義について、人類がきちんと理解していれば、このようなことはなかったはずだと思っております。理解して頂けないのなら愛も善もなくなり、「解脱やさとり」のような状態で終息することも可能かもしれません。生も死もなくなる。それでも生きるなら心を潰して自暴自棄に陥るような無様となってしまいます。そんな状態にあり、どうすればよいか、よくわからない。そういう状態にあるのが闇からみえる現実なのだとお伝えしたいです。

Name: あん
Date: 2015/08/25(火) 11:02   No:28081
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Title: Re:    
「苦しみを乗り越えるために」「執着するな」
そこで解脱と反作用にある物質至上主義における精神的苦悩を、どのように処理したらいいか?という原始基本的な問題を抱えています。
幾ら解脱のためといっても生きる人に死ねとなれば悪魔的発想ではないでしょうか。
悪魔的発想の要因は取り除かないとならず、愛や善の存在意義と理由は、そのためにあるはずなのです。
必要以上に生かさず完全には殺さない。
これが、もっとも楽に解脱を目指せる方法に間違いないだろうし、愛や善の力が強まる多幸な生き方になること確信していることです。
過去最強の物質至上主義には、人間が生存する上での根本的な間違いにあります。
解脱と愛や善の知識からは、行き過ぎた物質至上主義を肯定できる理由は見当たらない矛盾に生じているようです。
私は、他に手段のない現代では、安楽死を実現させることが現実味帯びた合理的解決方法になると考えていますので、向けた知恵を授かれましたら幸甚な思いです。
それとも違うところに現実味ある解決方法は、本当にあるのでしょうか?

※今月は多分ですが、書き込みいたしません。ありがとうございました。幾度も読み返してみたいと思っています。


Name: あん
Date: 2015/09/03(木) 10:33   No:28100
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Title: Re:    
根本的な過ちがあるので、美しく生きることなどできやしないのではないですか。
八正道という尊い教義が幾ら正しくとも、苦しくて無理にあることだとしか思えません。
個人ではどうにもならないことだから、考えるほど葛藤に苦しむのでしょう。
それは私が間違ってるでないし、仏教が間違えてるわけでもなくて。
間違えているのは人類です。
全体の潤わない人類は、結局、死ぬしかなくて解脱しかなくなってしまう。
それだから考えずに感覚的に生きることだけが、仏教の生きるための教えになるということなのでしょうか。
生きるための最終的な仏教教義なのですか。
真理とは精神のことだし、各々の精神による自業自得なはずだと思います。
物質的な現象は、すべて他業自得による幻影のようなもの。
現代の日本人は似非の自業自得論に翻弄されて生かされます。
けど慈善も犯罪も慈悲だって自他業自得と思うのです。
違うのでしたら、是非とも、ご教示くださいませ。
よろしく、お願い致します。


Name: 青野
Date: 2015/09/03(木) 12:39   No:28101
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Title: Re:    
こんにちは。一番始めに投稿されている、生活上の問題は解決されましたでしょうか。

あんさんが何故ここまで、あれこれ考えねばならないのか、考えてしまうのかを考えたとき、生活上の苦しみが影響しているのではないかと感じます。

衣食住が足りていない、例えば明日の食事はどうしよう、借金はどうしよう等というような状況では、仏教の実践はちょっと難しいと言われます。頭から悩みが離れないためですね。まずは衣食住や目先の気掛かりな問題を解決するのが先です。

「妄想するな」と仏教では言われます。真理は考えるものではなく、観るものです。あんさんがここに書き込んでいるような思索は、仏教の実践においては無駄な時間を費やしているようなもので、逆に邪見すら生んでしまう可能性があります。

もし生活に不安があるのであれば、先にその解決を図られることをお勧めいたします。


Name: あん
Date: 2015/09/05(土) 15:38   No:28110
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Title: Re:    
私が相談させて頂いて自業自得の酷な回答しか得られず、悲観して嘆くことになっても一長一短です。
世の悲観論に納得したとき、やりきったことで解脱に向かえるかなと思えることになるからです。
何れにしても、世界が浄土化していくか個人が解脱に向かうしかないのでしょう。
そうですよね?
互いに理解し合えない結果が、解脱では世界にとってのハッピーエンドはありません。
それは解脱に伴う悲しみや苦しみを一人一人が個別で理解していくのだという認識に向かうのだと思うのですが。
ここが、どうしても、ご理解いただけないことなのでしょうけど、自らの経験を他に置き換えれば、この世界の継続は冷酷で悲観せざるえない状況なのです。
悲観視する根拠としては、犯罪や自殺の多発化や凶悪化を掲げられます。
悲観視する未来を、どのように考えるとよいのか、よろしければご指導いただけないでしょうか?
やはり自業自得となり、この文章の繰り返しになるほかないのでしょうか?
その場合は、解脱できる諦めの境地まで、やりきるしかない。
仏教では、そうなのでしょうか?
お聞きしたいです。
連続投稿で申し訳ありません。
結果に関わらず、御縁に期待をして感謝します。


Name: 青野
Date: 2015/09/05(土) 20:41   No:28111
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Title: Re:    
こんにちは。文章が非常に意味が通りにくいです。句読点の位置、主語述語の関係を意識して書いていただきませんと、意図している内容がよく伝わりません。少なくとも私にはよく理解できませんでした。

「未来」「悲観視」という単語の多さから、未来を悲観されているということだけはなんとなく分かりましたので(違っているかもしれませんが)、それに関して仏教の観点から申し上げます。

常なるものはない。これが真理です。悲観も楽観も主観の問題です。 悲観視する主体が、未来を、現象を、自分の思考によって「悲観」しているに過ぎません。
悲観視しようが楽観視しようが、現象は移り変わります。現象自体に良い悪いはありません。年老いる、病になる、動くことが辛くなるetc、すべて事象でしかありません。受け止める側の心が、良い悪いといったイロをつけているのです。苦しみはイロをつけることから生じます。

犯罪や自殺の多発? 数十年前まで日本も戦争していたんですよね? こんなに平和な時代に生まれ平和ボケしているかもしれませんが、世界をみれば争いに巻き込まれて死んでいる人だって沢山いるんですよ。
何が争いを起こすのか。それくらい分かりますよね、こころです。頭であれやこれやと考え、欲にまみれ、自身を正当化し他を責める。そんなこころが争いを起こすのですよ。

他者はかえられません。自己ですら思うようにできないのに、なぜ他者をかえられるのでしょう。況や社会をや、です。社会といったものを論じていること自体、はっきり申し上げて無駄です。

他を頼ろうという思いから、怒りや悲しみが生じるのです。頼れるものなどないのですよ。自身の身体すら、こうしている間にも朽ちる方向へと変化し続けているのです。現象を淡々と受け止める、そこに平安があります。真理への智慧が生じた上で、現象に対して怒りや欲もなくなる状態が、仏教でいう聖人の域です。

解脱に伴う悲しみや苦しみなどと書かれていますが、そんなものは存在しません。
解脱云々と論じる以前の部分で理解が足りていませんので、ずっと以前に書きましたが、ネットにつながる環境であれば、仏教について教えが説かれているサイトもあろうかと思いますので、学びなおしたほうが宜しいかと思います。生活の苦があり頭を離れないならば、その解消が学習より先です。


Name: あん
Date: 2015/09/05(土) 11:50   No:28108
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Title: Re:    
青野様、ありがとうございます。
衣食住や目先の気掛かりな問題を解決することが先とのことは、ごもっともです。
いまの私は、それに励んでも解消できないことを嫌というほど経験した結果として在ります。
色々と多面的に時には恥も外聞もない試行錯誤をしながら、何とか生きながらえて、相談に上がらせていただいているのです。
お陰様の経験と思考により育まれまして、仏教で説かれる教えには私なりには殆ど整合性の取れる解釈に至れてるつもりです。
ゆえに仏教や多くの哲学的な解釈に正しさを痛感しているのです。
私には物理的な観点で治まりきらない経緯を前提として、ご意見を賜れましたら、大変にありがたいこととなります。
生意気と思われるかもしれませんが、構いません。
よろしくお願いいたします。


Name: あん
Date: 2015/09/05(土) 12:27   No:28109
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Title: Re:    
それと、いつも書き漏れていますが、常時感性は基づく観念にあるものですので、感覚なしということは全くありえません。
感覚→経験→思考
基本的には、こうした繰り返しによ人生は学ぶのだと思っております。
感覚と経験と思考は常に伴うものでありますし、どれが欠如してもならないこととして考えております。
そして最終的には解脱しか残らないとされるのですよね。
しかし解脱してて生きるなんてことが、可能なことでしょうか?
それは難しいとしても八正道で生きることの難しい環境は、改められるべきであること違いないと考えております。


Name: あん
Date: 2015/09/06(日) 17:33   No:28113
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Title: Re:    
青野様、ありがとうございました。
読み辛い文章しか書けずに、申し訳ありません。

「苦しみはイロをつけることから生じます。」とのことですが、生きること自体が色をつけるとされてるのではないでしょうか。
それで仏教では、一切皆苦が説かれるものだと考えてきました。
さらに良い悪いといったイロもつけないのであれば、善行とは何かという疑問も湧いてまいります。
また、こうした真意を理解せずとも、解脱に向かえるという話でしたら、学び直さなければなりません。
おすすめのサイトがございましたら、ご案内いただけますか?


Name: 青野
Date: 2015/09/06(日) 19:13   No:28114
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Title: Re:    
あくまで初期仏教の学習(理論)と瞑想による経験を元に、書かれている内容について述べさせていただきます。

「感覚と経験と思考が常に伴う」とのことですが、感覚は、その感覚が生じて認識されれば「経験」したことになろうかと思いますが、認識できていない感覚もありますね(たとえば、人は複数の痛みが身体に生じているとき、最も大きなものしか認識できません)。
「経験と思考が常に伴う」ということですが、今、目に触れているもの、聞こえているもの、身体の感覚、そういった五感の全てについて、瞬間瞬間で思考は生じていますか? 生じていないでしょう。思考する時点で、取捨選択が必ず生じますが、その取捨選択は心がしています。感覚も同様、心で感じています。ですから心が主なのです。思考(あれやこれやと考えること)が重要なのではなく、心の操縦をすることが重要なのです。

解脱して生きていられるか。ご参考までに申し上げれば、解脱(阿羅漢)に達した聖者は、給与の支給を待つ役人のような気持ちで残りの寿命を過ごすそうです。

「生きること自体がイロをつける」というのは凡夫の有り様です。イロを付けるとは、正しく観ていないということです。分かりますか?
善行とは、文字通り「善なる行い」です。イロをつけたのではなく、正しく観た時(正見)、その行いが善果をもたらすから善行なのです。自身の見解=正しいという思考(見)がある限り、この辺は理解が難しいかもしれません。

おすすめのサイトとのことですが、初期仏教であれば「原始仏教」や「テーラワーダ」といったキーワードで検索すると情報は得られるのではと思います。最近はYouTubeで音声も聴けたりしますので、探してみてもよいかもしれません。



Name: あん
Date: 2015/09/07(月) 11:14   No:28116
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Title: Re:    

要するに、心の操縦を平穏に置くならば、つまり解脱に至るわけですね?



>解脱して生きていられるか。ご参考までに申し上げれば、解脱(阿羅漢)に達した聖者は、給与の支給を待つ役人のような気持ちで残りの寿命を過ごすそうです。

欲をなくして現象を淡々と受け止め、心の操縦を平穏に置きます。
すると、現実的には餓死に至る話になってしまいますでしょう。
ですから、解脱しては生きていられないのだと考えております。



>「生きること自体がイロをつける」というのは凡夫の有り様です。イロを付けるとは、正しく観ていないということです。分かりますか?


仰る通りと承知いたしました。「生きること自体がイロをつける」という凡夫の有り様にあって、一切皆苦が説かれるのですよね?
凡夫として、どのように生きるかというのが課題です。
解脱を凡夫に追及するのは難しいのでしょうから、相談させていただいております。



>善行とは、文字通り「善なる行い」です。イロをつけたのではなく、正しく観た時(正見)、その行いが善果をもたらすから善行なのです。

思考を巡らさず、自ずと善果をもたらせる境地に至るということでしょうか?
しかし、正見は思考ではありませんか?
感性だけで常に正しい判断ができるようになるというのは、複雑な文明社会にあっては、ほぼ不可能な話と思えます。
それで出家制度があるのですよね?



それと「原始仏教」や「テーラワーダ」は、部分的ですが拝見したことはあります。
「原始仏教」は、納得できることが多く、それ自体に違和感はありません。「解脱して生きていられるか。」にも付随しますが、現実に生きる手段としては整合性上の問題がありますし、思い悩むことはあります。「テーラワーダ」につきましては、確かFAQで拝見した記憶ですが、すべてにおいては納得できる解釈にはありませんでした。主な項目には違和感ありません。



ご縁を頂きましたので、また拝見してみます。
ありがとうございました。


Name: あん
Date: 2015/09/07(月) 12:38   No:28117
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Title: Re:    
人間とは、愛から出でた存在として考えております。
愛別離苦こそが、最期に訪れるテーマでありますし、最も重要視するべきことだと思うのです。
私には、生きる=愛であるということです。
『愛欲にひとしい火は存在しない。』と原始経典に記載がありました。
次に『この世の中は暗黒である。』が故に『愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。』との対処が説かれていました。
言葉には納得しますが、生きる=愛である以上は、愛に固執せず生きることはできないと考えます。
愛に固執せず生きるならば、生きる枠を外れた解脱しかないのですよね。
『修行僧が止と観の瞑想について彼岸に達したならば、彼はよく知る人であるので、彼の束縛はすべて消え失せるであろう。』
続いて、このような記載にありましたが、それは(彼岸に達し=生を断つ)ことなのでしょう。
生について仏教が説かれてることの基本は、「あらゆる命を大切にして、相手を思いやる。」これだけのことで、詳細に理詰めした内容が経典なのではないのでしょうか?
結局、そんな当たり前の話なのに、正せないから個別で解脱して死んでいくしかないということなのですよね?
ならば、それを正そうと試みながら生きる姿勢こそ、仏教の説く善行ではないかと解釈しています。
この辺りの私の理解には、何か違和感ございますか?


Name: 青野
Date: 2015/09/07(月) 19:40   No:28118
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Title: Re:    
>欲をなくして現象を淡々と受け止め、心の操縦を平穏に置きます。すると、現実的には餓死に至る

至りません。餓死に至るのであれば、ブッダは何年も法を説いていないでしょう。餓死すると断言されること自体に、非常に違和感を覚えます。

「正見」と思考についてですが、ここで申し上げている「思考」は、あんさんが行っているような「あれやこれやと概念をこねくり回している」ものについて「思考」といっております。
詳しい説明は致しかねますが、対象を見たとき、心は一瞬にして理解します。それが本当であれ、間違いであれです。正見は、正しくものが見える状態を言います。

違和感があるかとのことですが、正直申し上げ、違和感しかありません。「愛」を根本に置いていらっしゃるとのことですが、であれば、そもそも初期仏教とは相容れることはございません。キリスト教など、他の教えに依ったほうが宜しいかと存じます。

仏教が生について説いていることについて、思いやりというのは儒教ではありませんか? 生命を害するな、輪廻があるから生が生じるのであるから、輪廻を脱せよ(解脱せよ)というのが仏教です。

かくいう私も修行途中ですので、申し訳ありませんが、これ以上の説明は私には困難です。


Name: あん
Date: 2015/09/09(水) 11:59   No:28123
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Title: Re:    
他者のため他者を変えようなどと考えるより、苦による自らを正見の上で、自分のために他者を変えようとした善行を試みる。

それが満足に至れる極意で、大切ということでもありませんか?


Name: あん
Date: 2015/09/08(火) 14:45   No:28120
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Title: Re:    
青野様は小乗仏教というものなのですよね?
私は小乗的な考え方というのでは、修まりがつかない性分です。
小乗となれば、どうして他者との交流が必要となるのでしょうか?などと考え、原始経典に孤独の境地に励めとも書かれておられてることもあり、少々矛盾してるように思えてしまうことです。
ブッダのような生き方で、且つ小乗となりますと、嘗ての坊様のように托鉢で施しを受けながら生きる姿が最適ということになるでしょうか?
いま私が真似すれば、単なる乞食にしかなりませんけども、結局、托鉢の施しを受ければ大乗へと向かう。
気を悪くされるては困りますが、そういう流れにある気がしてならないのが私の率直な気持ちです。
凡夫の私は、愛に固執するしかなくて、大乗というのも、そういうものではないのかと考えています。
いずれにしても相容れることはないとのご意見をいただき、ご縁も潮時かと感じられました。
ただ私としましては、ここにご縁を頂きましたこと、ご意見を窺えましたことに本当に感謝しております。
もし負担に感じられず気になさらないということであれば、今後とも、ご意見を窺わせてもらえますと大変にありがたいことと思っております。
ありがとうございました。


Name: 青野
Date: 2015/09/09(水) 12:54   No:28124
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Title: Re:    
自分のために他者をかえるとは、とんでもないエゴですよ。正見以前の問題です。そもそも他者は変えられません。変えられるのは自己のみです。これは仏教の基本です。


小乗という呼び名は、大乗の人々が自分たちを正当化するために蔑んだ呼び名であって、言ってしまうと「小乗」が正統です。
本場へ行けば、例えば日本の仏教は仏教と見なされません。実際、教えもだいぶ歪められていますので、それは当然だと思います。仏教と名乗ること自体、やや無理を感じます。

あんさんがどう思うとしても、真理は真理です。「真理はこうあるべきだ」「私には無理だ」「私はその教えには共感出来ない」といった議論へのお付き合いは致しかねますので、これ以上は困難ということで前回書かせていただきました。
あんさんのお幸せをお祈り申し上げます。




Name: あん
Date: 2015/09/09(水) 15:21   No:28126
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Title: Re:    
殺すものと殺されるもので、どちらが生き残るかといえば、殺すものです。
決まって殺す方が悪いですけど。
世界を学びの場として観ていっても、正しいものや善良なものは迫害されています。
他を殺す罪悪を思い知れば、二度と他を殺さない。
だからでしょうか。
殺す罪悪を知らないものほど、生命力も強く殺させるようにもなっているのですかね。
殺す罪を知らぬ者が居るなら、殺させるしかなくなる。
善行を知らぬ者が居れば、悪行を働かせるしかなくなる。
いつでも悪のほうが、この世では強いです。
残念ながら、やはり地球は学びの場とした節理だけの上に在るのでしょうか。
今の時代は、多くの人が、悪行や殺す罪の理解を示していると思えるので、表面的には殺させない悪を働かせない時代にはなりました。
なので悪行や殺す罪の同じ理解にあって、それをする者に対しては、私の生命力が劣るということはないかと思います。
でも私の生命力が劣るということは、生命力の勝る他者が、悪行や殺す罪の理解ができておらず、それが正しいことと信じて疑わないから。
実際、我欲が強いほど、そのとき知らないほどに楽には生きれますよね。そう思われませんか。
真理だから仕方がない?


Name: あん
Date: 2015/09/09(水) 15:39   No:28127
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Title: Re:    
青野様「小乗」が最終的な見解なのは理解できます。生死の区分をなくしていえばですけど。
他者をかえるという表現は、あまりよくありませんでしたが、人とのご縁やかかわりによって、人が学ぶニュアンスを含めます。
わかりにくいですよね?
ここで、これ以上のご迷惑をお掛けできないとの判断で、今後の投稿は控えます。
それと私の幸せをお祈りいただいて、ありがとうございました。
私は、いつか誰もが笑顔になれるよう、幸せをお祈りいたします。
青野様、仏手様、ご意見を窺うことができ、大変感謝しております。
これで失礼いたします。
ありがとうございました。





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