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お寺ネット:仏事相談室
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[5604]Re:成仏できてい..
..天台沙門
某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。

結論から申し上げますと、生者が死者に対して「もうしわけなさ」をもっていなければ、その死者は「成仏している』と考えてよいでしょう。ある生者にとって成仏しているとおもわれる死者も、別の生者にとっては成仏していないとおもわれることもあってしかるべきです。

さて。
成仏ということは仏に成るということです。理論的には、宇宙の真理そのものである大日如来と一体化することをいいます。

ところで、人の死とは肉体からタマシイ(霊魂とは別の概念です)が離れてしまい二度と肉体と一緒になれなくなった状態をさします。この肉体から離れてしまったタマシイが宇宙全体と一体化することをもって成仏ということもできます。
私は手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』を例にとるのですが、手塚治虫の描く火の鳥は「宇宙という生命であり、個別具体的な生命が生まれるところであり還っていくところ」です。大日如来という仏格は火の鳥と同様の存在でしょう。または『千の風になって』に歌われる自然というものも大日如来であり火の鳥であると考えることもできます。

ある種の危険性を承知のうえで表現しますが、肉体という束縛を離れたタマシイはすべからく成仏している、といってよいでしょう。したがいまして御父君は成仏なさっておられます。
ご安心ください。



あたりまえですが客観的な「成仏」の証明はできません。したがって生者にできることは、死者が成仏したと信じることだけです。各種の宗教儀礼は信じるために経験的に成立したものであり、これを行なうことで信じることができるシステムです。
たとえ「まねごと」であっても死者を追悼する行為は正しい供養の方法と考えてよいでしょう。ただ、形式が違うだけということです。
..2018/05/30(水) 16:27
成仏できている..
→Re:成仏できてい..

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